娘は小さいころからとても気が利く子で、手がかかりませんでした。今思うと息子に手がかかっていたので、余計に良い子にしてくれていたのかもしれません。
保育園に通っている頃、息子が宿題で癇癪を起こすのをいつも見ていて私が疲れ果てていることを知ってか、「私は小学校に行ったら、お母さんに言われなくても宿題はすぐに終わらせるよ!」と私に言うような子でした。
そして保育園を卒園するタイミングで夫の転勤が決まりました。
娘が激変する
新しい環境で新1年生。今思うとものすごいストレスだったんじゃないかと思います。
娘は学校が終わり学童に行くと、宿題をしっかりと終わらせ、親が見ないといけない宿題(音読)以外は、学童の予定でできない時を除き全て終わらせて帰ってくるような子でした。そして家に帰ればさっさと音読を終わらせてから遊ぶというように、親としては手のかからない子供だったと思います。
それがある日、激変したのです。
帰ってきて宿題が残っているからと漢字を書き始めたのですが、ちゃんと書けない!綺麗に書けない!と泣き出し癇癪を起こし、泣きながら何度も書いては消しゴムで消すのです。
娘はとても字の綺麗な子でしたから、何がダメなのか私もわからず、消す必要がないことを伝えても納得せず怒り狂い、全然綺麗じゃない!とわめき散らすこともありました。
音読をしようと思うと、それだけでわめき癇癪を起こすことも多々出てきました。
今までしっかりしていた子が突然豹変し、私はどうしたら良いのか、何が起きているのか、全く理解できませんでした。
ただただ当時は、仕事が終わって疲れているのに・・・とか、ご飯の準備がまたできないかも・・・と自分の都合ばかりを気にしていたように思います。
小1の娘、行き渋りが始まる
そしてそんな日が数か月続き、学校へ行くのを拒むようになりました。
当時、私は夫より先に仕事に行っていたため夫が娘を送り出していました。なので夫の事後報告で「娘が学校へ行きたくないと暴れる」「パジャマのまま服をもって先生に預けた」といった内容がLineで送られてきたときは、夫の行動に驚いてしまいました。
息子の時に不登校について勉強をしてきた私だったので、その対応がまずい事は一目瞭然だったのですが、夫はそのことを知らなかったのです。
いや少しは分かっていたのだと思いますが、会社に送れる!という焦りや苛立ちから、無理やり学校へ連れていったのだと思います。
息子の時に私も無理やり連れて行こうとしたことがあったので、夫を責める気持ちにはなりませんでした。
帰宅後、先生から電話がありました。
娘さん、学校に来てからは普通に過ごしていましたよ。だから頑張って連れてきてもらえれば大丈夫だと思います。といった内容でした。
私は少しホッとしてしまいました。
本当は、娘は一生懸命『普通』を演じていたのだと思いますが、当時の私は「そうなんだ良かった」と思ってしまったのです。
学童から帰ってきてから娘と話をしました。
娘から返ってきた答えは、『学校へ行こうと思っても朝行けなくなる』という答えでした。
そっかと言いつつも、私は息子の時と違い、簡単に学校を諦めることが出来ませんでした。
何でもできて手がかからない娘だったので、私は「学校へ行けない」ということを受け入れられずにいたんだと思います。
そして、息子が学校へ行っていない中、娘までも・・・という思いもありました。
今娘を頑張らせなければ、学校へ行けなくなってしまうのではないかとも思いました。既に頑張りすぎた結果だったことに私は気が付くことが出来なかったのです。
行きたくないと一度言った娘に、朝から学校へ行くか行かないかを決めてもらう日々を続けました。娘も今日は行けるかもというときは夫が連れていきましたが、ほぼ学校前でやっぱり無理と言って帰ってきていました。
そうやって行くか行かないかの選択は、行きたくないが100%となり、そこから娘の不登校が始まりました。
オルタナティブスクールとの出会い
息子の時とは違い1年生の終わりから不登校になったため、算数・国語と知らないことが多すぎて勉強についての不安が私の中で大きくなっていました。
勉強をさせようにも、仕事で私はいませんし、娘は学校のことを思い出すのか、勉強をすることを頑なに拒みました。
息子の時とは違い娘の勉強については不安で仕方なく、何か方法は無いかと考える日々でした。
それから半年後、オルタナティブスクールが近くにあることを知りました。
もしかしたら娘に合うかもしれないという思いで娘に話しました。娘は『そんな学校があるのなら行ってみたい!』と興味を示したため、体験をして、その後その学校へ行くことを決めました。
学校へ行くことが決まった時、「焦ってはだめだ!」と心に言い聞かせながらも、私は「ここならやれるんじゃないか!」と期待せずにはいられませんでした。
急にフルで学校へ行くのは難しいだろうと判断し、娘に無理なく行ける範囲で行こうねと話をしました。毎日はやはり難しく、週2~3回通うのがやっとといった感じでした。
それでも学校から帰ってくると娘は「楽しかった!」と目を輝かせ、「今日はこんなことをしたんだよ!」と、とても楽しそうに話をしてくれました。でも、疲れすぎてしまうようで、帰ってくるとすぐに寝てしまう日々でした。
そうして1ヵ月過ぎたころから、週に1回になり、そして最終的には学校の前までは行けるけどそこから先に行くことが出来ないという状態になってしまいました。
車で30分と離れている学校でしたので、私は会社に短時間勤務の申請をしていました。
そんな中、校門の前でずっと行くのか行かないのかを悩む娘を見て、無理をさせてはいけないと思いながらも、ここまで頑張っているからという気持ちが私自身も娘自身にも合ったように思います。
そのためとても辛そうにしている娘に「今日はここまでにしようか」と話をしても、「行けるかもしれないから、もう少し頑張りたい」と言うと、私は「そうなんだね」と言い、娘が「帰る」と言うまで待つ日々が続きました。
学校へ向かうと2時間は学校の前にいるという生活になり、娘が行くと判断した日は毎日午前は会社をお休みする必要がありました。
更にたまに玄関まで行けた日は、そこで少し過ごして帰ることもあったので、2時間以上になることもあり、一日お休みすることもありました。
私は半休を取ったり一日休んだりと、会社には迷惑をかけていることしかなく、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そのため仕事に行った日はそれこそ残業してでも業務をこなそうと必死になりました。
また、当時私は、母が癌で介護が必要になっており、たまたま引っ越した先が車で1時間で帰れるところにあったので休みの日は泊りがけで介護をしに行くといったような生活をしていました。
そんな日が数週間続きました。
娘をいつものように学校へ連れていき、校門の前で2時間過ごして帰る車の中で、ふと横を見ると疲れ切った娘がぐっすり眠っていました。それを見ていると、色んな感情がこみ上げ急に前が見えなくなるほどの涙が出て止まらなくなりました。
ああ、このままいけば私も娘も壊れてしまう・・・そう思ったのです。
不登校のための介護休業
すぐに私は会社と相談し、娘のための介護休業を1年取得することにしました。理由は娘が精神的に不安定になっているためです。私も心が不安定になっていることも伝えました。
この時期、私は学校へ連れて行って帰った後、会社に行くという生活をしていました。たまに娘が精神的に不安定になり、会社に行こうとするときに「会社に行かないで」と私に抱きつき離れてくれないこともありました。
今思うと、きっと学校へ行けるかもと思って頑張ったのに行けなかったということが、娘にとってはとても辛く心を不安定にしていたのではないかと思います。当時、娘は私に「せっかく新しい学校は楽しいのに、私はどうして行けないのだろう。」と言ったこともありました。
今思うと、全てがぐちゃぐちゃで何もうまく行く要素が無かったのです。
介護休業を取得してからは、娘と向き合う時間ができました。
まず娘に学校へ行きたいと言った日は一緒に学校へ行き、校門のあたりで過ごしたのち、母に会いに行くということが多かったです。行かないと言った日はそのまま母のところへ向かうこともありました。
そうすると母もとても喜びました。あんなに学校へ行っていないことを気にしていた母もこの時にはもう何も言わなくなっていました。
2人で楽しそうにジグソーパズルを作ったりしている姿は、ああこうやって学校に行けていないことも結果的に母が孫と遊べる機会になって良かったのではないか、と思えるほどでした。
私はこの頃、ようやく娘のことをじっくりと考えられるようになったように思います。今までは考えていたようで考えられていなかったのです。
娘にとって学校の何が苦手なのかがわからない中で、学校というシステムがダメなのだろうとあたりをつけ、オルタナティブスクールを選択したのですが、それももしかしたら違うのかもしれない、と思うようになりました。
娘はこのオルタナティブスクールが大好きでした。でも帰ってくると、ぐったりしていたのです。
私は娘が大人数の中で生活することが難しいのかもしれないと思うようになりました。だとすると、いくら好きな学校でも行けないことが辛くなるだけで良いことは何もないのかもしれない、と思うようになりました。
娘が行ったオルタナティブスクールは公立の学校に比べれば全校生徒で100人程度でしたが、娘にとってはこの人数でも辛いようでした。
そこで娘に一度公立の学校に籍を置くことを伝え、でも学校へは行かなくて良い、お母さんが家にいるから一緒に何かできるし、人がもっと少ないフリースクールを探してみるのも良いかもしれない、という話をしました。
そして、もし学校へ行きたいと思ったときはまたオルタナティブスクールへ行けば良いよと伝えました。
娘は始め公立の学校の話をしたときに不安そうな顔をしましたが、オルタナティブスクールの校長先生がいつでも戻ってきて良いよ、娘の枠は空けておくから大丈夫だよと言ってくれたことを伝えると、安心したようでした。
ここから娘の不登校は始まったのです。
余談です。
娘が学校へ行かなくなり、母に会いに行く機会が増えました。娘も一緒について来てくれることが多く、母と過ごす中での貴重な経験がいっぱいできたと思います。
お風呂に入れなくなった母の手を娘が一緒に洗ってくれました。
家で最後を看取ることもできましたし、母が亡くなった後、母の髪を一緒に洗ってくれました。
娘にとっても私にとっても、大事で暖かい時期を過ごすことができたと思っています。
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